うっすらと何かが見えてきたような気がふとする。
しかし、その何かを言い表すのは容易ではない。だが、いま書き留めておかないと、すぐに忘却の彼方に沈んでしまうので、支離滅裂になるのを承知でメモ書きをしておきたい。
よく言われるように、近代とは、人間が、そして世界が、ことごとく断片化されてしまった時代と言えるかもしれない。こういった断片化は、しばしば疎外という言葉で表現されている。おそらく芸術の目的、というか使命があるとすれば、それはこうした断片化の結果生じる疎外に抗うこと、あるいは少なくともそれを和らげることにあろう。言い換えれば、それは、否応なしに断片化に晒されてしまっている人間存在に失われた全体性をたとえ一時的にであれ回復させることにあるのではないか。
この意味で、批評の使命とはおそらく、作品とその潜在的鑑賞者との間を知的な回路を通じて媒介することと言っていいかもしれない。
批評性の高い作品というのは、そのような全体性の回復を無媒介に創出しているかのごとくに感じさせるがゆえに、媒介者としての批評を奮い立たせずにはおかないはずである。ここでなぜ批評が重要であるだけでなく不可欠になってくるかといえば、それは、批評という行為なくして、人は無媒介的に全体性の回復を感得することはできないと思われるからだ。仮に批評の力を経ずして全体性の回復を体感できたと感じたとしても、それは盲目的な恍惚感かファシズム的熱狂のような虚偽意識でしかないだろう。
ただ、ここで誤解してもらいたくないのは、批評という行為は、「批評家」という肩書きをもつ専門家集団に限られた行為ではまったくない、ということだ。むしろ、優れた作品が醸し出すであろう失われた全体性の雰囲気は、すべての者に例外なく開かれているはずである。したがって、すべての者が潜在的には優れた批評者になりうるだけでなく、作品自体がわれわれによき批評者たらんことを要請しているとも考えられるかもしれない。極限すれば、作品に接しうる者にこのような意味での批評性が欠けていたら、優れた作品が生み出されることも、また、むしろこちらの場合の方が往々にしてあることだが、見いだされないままにとどまるのではなかろうか。
いささか逆説的に聞こえるかもしれないが、このことは、商業主義のはびこる世の中において、真に優れた作品が限られたわずかな鑑賞者にしか「消費」されていないという、容易に想像しうる現実が紛れもなく示している。これがつまり、よき鑑賞者はよき作品を生む(と、誰かが言ったかは知らないが)、ということの意味であろう。
ここでいつの間にか、問い3「能動と受動の関係」をめぐる問題機制にわれわれが一歩近づいているのにふと気がつく。
芸術という現象はふつう、作品の作り手がいて、それを鑑賞する受け手がいる、すなわち、作品という媒介によって作り手がなんらかのメッセージを受け手に伝える、といった風に思われがちである。しかし、両者の関係をそのように一方通行的な能動/受動の関係で捉えてしまうと、この両者の関係に実は批評という見えざる行為が不可避的に媒介していることを見えなくしてしまう。こうした考えや態度は、芸術作品をあたかも商品のような交換経済で扱われる物質のように捉えてしまう誤謬に導きかねない。
もちろん、商品経済にも需要と供給という関係があるのだから、生産者と消費者も単純に一方通行的な能動と受動の関係にあるわけではない。むしろ、消費者が生産者に能動的に働きかけ、さらには明確なメッセージをつきつけることを通して生産現場に変革をもたらすということすらも、とくに今のような世の中においてはさして珍しいことではない。だとすれば、能動/受動関係という点では、芸術における制作と鑑賞は、経済における生産と消費との関係との類推で考えることもできそうだが、はたして芸術と経済をこのように同列に扱うことができるだろうか?
このように芸術と経済との線引きが不鮮明になってしまっているのだとすれば、それは、われわれの世界が、徹底的な資本主義化を通した断片化に晒されている結果としての倒錯的事態であるに違いない。というのも、生活のありとあらゆる局面が商品化に徹底的に晒されているこの世界にあっては、芸術もまた、限りなく物象化の危機に晒されてしまっているはずなのだから。たとえば、経済活動において品定めやクレームやボイコットによって消費者が生産者に能動的に働きかけられるのと同様、芸術においても絶賛や酷評や無視によって、鑑賞者は作品の作り手に能動的に働きかけることが可能である。したがって、潜在的鑑賞者の「需要」に見合っていない作品は、顧みられずに歴史の闇に埋もれるか、ごく一部の特殊な嗅覚をもった者たちにしか「消費」されないかのどちらかにとどまるだろう。
こうしてみると、芸術における制作者と鑑賞者との関係までもが、かなりの程度、経済活動における生産者と消費者との関係との類推において説明できてしまうのである。単純に言えば、芸術作品もまた、需要と供給という経済的原理にことごとく支配されることによって、あたかも商品のようにとり扱われてしまうのである。
こうした倒錯的な事態はしかし、人々の「消費」意欲をそそるような資本投入や宣伝といった手段としての似非批評ではなく、それ自体が目的化された批評、いわば批評のための批評によってのみ、回避することができるだろう。この場合の批評とは、作品の鑑賞者が作品の作り手とは無関係に作品自体と能動的に対峙することによって現存する作品を独自の仕方で「完成」させるプロセスと言うべきかもしれない。なぜなら、あらゆる作品は、完成と同時に、無限の解釈に開かれた存在として、新たな、そして(制作者からすら)自律した生を歩み始めるからだ。この意味で、すべての作品は、同時に未完成であるがゆえに、批評者を必要としている、とも言える。作品とは言ってみれば、そこに目を向けることによってのみ発掘されるような、歴史のような何かであるに違いない。
作品は、ひとたび「完成」をみて世界に投げ出されるや、制作者の手の及ばない領域に踏み出すことになる。その意味では、いわゆる「著作権」という問題とは、芸術家の保護という観点からの介入というよりは、はるかに重商主義に裏打ちされた倒錯的な事態の一つとも考えられるかもしれない。
議論の余地も残るだろうが、とりあえず備忘録的に断片的な思考の痕跡を残してみようと思う。
ともあれ、断片化と全体性の回復という大問題の方は、なかなか一筋縄ではいきそうにない。
