芸術と経済のあいだ 〈直立演人の場当たり問答 7〉

うっすらと何かが見えてきたような気がふとする。

しかし、その何かを言い表すのは容易ではない。だが、いま書き留めておかないと、すぐに忘却の彼方に沈んでしまうので、支離滅裂になるのを承知でメモ書きをしておきたい。

よく言われるように、近代とは、人間が、そして世界が、ことごとく断片化されてしまった時代と言えるかもしれない。こういった断片化は、しばしば疎外という言葉で表現されている。おそらく芸術の目的、というか使命があるとすれば、それはこうした断片化の結果生じる疎外に抗うこと、あるいは少なくともそれを和らげることにあろう。言い換えれば、それは、否応なしに断片化に晒されてしまっている人間存在に失われた全体性をたとえ一時的にであれ回復させることにあるのではないか。

この意味で、批評の使命とはおそらく、作品とその潜在的鑑賞者との間を知的な回路を通じて媒介することと言っていいかもしれない。

批評性の高い作品というのは、そのような全体性の回復を無媒介に創出しているかのごとくに感じさせるがゆえに、媒介者としての批評を奮い立たせずにはおかないはずである。ここでなぜ批評が重要であるだけでなく不可欠になってくるかといえば、それは、批評という行為なくして、人は無媒介的に全体性の回復を感得することはできないと思われるからだ。仮に批評の力を経ずして全体性の回復を体感できたと感じたとしても、それは盲目的な恍惚感かファシズム的熱狂のような虚偽意識でしかないだろう。

ただ、ここで誤解してもらいたくないのは、批評という行為は、「批評家」という肩書きをもつ専門家集団に限られた行為ではまったくない、ということだ。むしろ、優れた作品が醸し出すであろう失われた全体性の雰囲気は、すべての者に例外なく開かれているはずである。したがって、すべての者が潜在的には優れた批評者になりうるだけでなく、作品自体がわれわれによき批評者たらんことを要請しているとも考えられるかもしれない。極限すれば、作品に接しうる者にこのような意味での批評性が欠けていたら、優れた作品が生み出されることも、また、むしろこちらの場合の方が往々にしてあることだが、見いだされないままにとどまるのではなかろうか。

いささか逆説的に聞こえるかもしれないが、このことは、商業主義のはびこる世の中において、真に優れた作品が限られたわずかな鑑賞者にしか「消費」されていないという、容易に想像しうる現実が紛れもなく示している。これがつまり、よき鑑賞者はよき作品を生む(と、誰かが言ったかは知らないが)、ということの意味であろう。

ここでいつの間にか、問い3「能動と受動の関係」をめぐる問題機制にわれわれが一歩近づいているのにふと気がつく。

芸術という現象はふつう、作品の作り手がいて、それを鑑賞する受け手がいる、すなわち、作品という媒介によって作り手がなんらかのメッセージを受け手に伝える、といった風に思われがちである。しかし、両者の関係をそのように一方通行的な能動/受動の関係で捉えてしまうと、この両者の関係に実は批評という見えざる行為が不可避的に媒介していることを見えなくしてしまう。こうした考えや態度は、芸術作品をあたかも商品のような交換経済で扱われる物質のように捉えてしまう誤謬に導きかねない。

もちろん、商品経済にも需要と供給という関係があるのだから、生産者と消費者も単純に一方通行的な能動と受動の関係にあるわけではない。むしろ、消費者が生産者に能動的に働きかけ、さらには明確なメッセージをつきつけることを通して生産現場に変革をもたらすということすらも、とくに今のような世の中においてはさして珍しいことではない。だとすれば、能動/受動関係という点では、芸術における制作と鑑賞は、経済における生産と消費との関係との類推で考えることもできそうだが、はたして芸術と経済をこのように同列に扱うことができるだろうか?

このように芸術と経済との線引きが不鮮明になってしまっているのだとすれば、それは、われわれの世界が、徹底的な資本主義化を通した断片化に晒されている結果としての倒錯的事態であるに違いない。というのも、生活のありとあらゆる局面が商品化に徹底的に晒されているこの世界にあっては、芸術もまた、限りなく物象化の危機に晒されてしまっているはずなのだから。たとえば、経済活動において品定めやクレームやボイコットによって消費者が生産者に能動的に働きかけられるのと同様、芸術においても絶賛や酷評や無視によって、鑑賞者は作品の作り手に能動的に働きかけることが可能である。したがって、潜在的鑑賞者の「需要」に見合っていない作品は、顧みられずに歴史の闇に埋もれるか、ごく一部の特殊な嗅覚をもった者たちにしか「消費」されないかのどちらかにとどまるだろう。

こうしてみると、芸術における制作者と鑑賞者との関係までもが、かなりの程度、経済活動における生産者と消費者との関係との類推において説明できてしまうのである。単純に言えば、芸術作品もまた、需要と供給という経済的原理にことごとく支配されることによって、あたかも商品のようにとり扱われてしまうのである。

こうした倒錯的な事態はしかし、人々の「消費」意欲をそそるような資本投入や宣伝といった手段としての似非批評ではなく、それ自体が目的化された批評、いわば批評のための批評によってのみ、回避することができるだろう。この場合の批評とは、作品の鑑賞者が作品の作り手とは無関係に作品自体と能動的に対峙することによって現存する作品を独自の仕方で「完成」させるプロセスと言うべきかもしれない。なぜなら、あらゆる作品は、完成と同時に、無限の解釈に開かれた存在として、新たな、そして(制作者からすら)自律した生を歩み始めるからだ。この意味で、すべての作品は、同時に未完成であるがゆえに、批評者を必要としている、とも言える。作品とは言ってみれば、そこに目を向けることによってのみ発掘されるような、歴史のような何かであるに違いない。

作品は、ひとたび「完成」をみて世界に投げ出されるや、制作者の手の及ばない領域に踏み出すことになる。その意味では、いわゆる「著作権」という問題とは、芸術家の保護という観点からの介入というよりは、はるかに重商主義に裏打ちされた倒錯的な事態の一つとも考えられるかもしれない。

議論の余地も残るだろうが、とりあえず備忘録的に断片的な思考の痕跡を残してみようと思う。

ともあれ、断片化と全体性の回復という大問題の方は、なかなか一筋縄ではいきそうにない。

paradoxical nonesense 〈直立演人の場当たり問答 6〉

しかし、それにしても、上演された作品について、出演した当の人間があれこれ論じていること自体、かなりのナンセンスである。論じている作品を観たわけでもない)のに(そもそも出演した当人は唯一例外的に作品を観ることができない!)。

では、なぜ論じようとしているのか?

これにも明確な目的は確実にない。ただ、観ていただいた人たちから問いかけられてしまったからには、たとえその場しのぎ的にであれ、なんらかの反応をしなければならない、という強迫観念(より穏当に言えば、応答責任)を感じるからとしか言いようがない。言い換えると、アフタートークなどという慣れないことをしてしまったことのツケを今になって支払おうと孤軍奮闘している次第なのである。

そんなわけなので、当初お伝えしたとおり、願わくは、ロプロプ氏ないし昆虫氏をはじめとする諸氏からの介入も気長に期待しつつ(ということは、あまり期待していないのだろうか・・・)、なんとかこの逆説的な荒唐無稽をもうしばらくのあいだ演じてみることとしたい。

迂回する問答、あるいは失われた批評を求めて 〈直立演人の場当たり問答 5〉

かつての相棒が「給油」を始めたところで、宙づりになったこの問答もそろそろ再開すべき潮時に達したようだ。しかし、なかなか切り出せないでいる。いま流行の「つぶやき」というコミュニケーション形式に自分が不向きであるのも理由の一つだが、要するに、場当たり的に自らに課してしまった「6つの問い」に応答するのが容易ではなかった、というのが単純な理由である。

しかし、このまま放置しておいても何も始まらないし、問答の終焉も見込めそうにないので、とりあえず迂回の言葉を綴ってみることにしよう。したがって、当初の勇ましいマニフェストに反して、「6つの問い」は当面おあずけとならざるをえないが、かといって、応答自体を断念してしまうわけでもない。応答は先送りにされるが、問いは開かれたまま私の脳裏をかすめ続けることを運命づけられるのだから(ちなみに、「6つの問い」のなかでも一番気にかかっているのが問い4「この劇には希望がない?!」である。しかし、この問いの発信者である仲野さんが言及していたポールオースターの『最後の物たちの国で』をまずは読んでみることから始めねばなるまい)。

さて、話は急変するが、人はなぜ演劇の舞台に立ちたがるのだろうか?

これは自分自身への問いかけでもあるのだが、より一般化すれば、芸術と呼ばれる現象に主体的に関わりたいという欲求はどこから生まれるのか? と言い換えてもいいだろう。私自身について言えば、研究という、良くも悪くも世間離れした領域に足を突っ込んで10年近くになるが、周りからすれば明らかに常軌を逸していると思われても無理のない今回のような試みを断行した(というよりも、断行せずにはいられなかった)のは、(広義の)研究という手段では到達不可能な表現の領域に身を浸したいという、これまで抑圧し続けてきた欲求が徐々に頭をもたげていたところで、たまたまピンターの死と昆虫氏との8年ぶりの再会とが重なったという偶然によるところが大きかった。

一方、ロプロプ氏あるいは昆虫氏はかつて、人はなぜ劇場に足を運ぶのか、という、愚直な問い(だが、愚問ではない)を発したことがある。そこで、先日ひさしぶりに再会した折、では、なぜ人(つまり、昆虫氏)は劇をするのか、と問い返してみたのだが、そこで得られたのは、「以前、ブログでそれらしきことを書いたことがあるよ」という返答ならぬ返答だった。要は、うまくはぐらかされたわけである。だが、翻って自問してみても、やはりよくわからない、というのが正直なところだ。たんなる目立ちたがりか自己顕示欲の表れと言えば身も蓋もないが、かといって、そこに何か論理的な理由があるわけでもなさそうである。とりたてて明確な目的があるわけでもなく、なにか特別な瞬間に居合わせたいとか、一風変わった時空間をつかの間であれ生きてみたいとか、ただ、そんな漠然とした欲求があるにすぎない。少なくとも、よく言われるように、自分と違う誰かを演じてみたい、という理由だけはなさそうである。つまるところ、目的のないある種の心地よい緊張の持続とでもいうか、それ自体が目的となるような掛け替えのない瞬間との一体感とでもいうか、そん希有な体験を得んがために、人は劇をするのではなかろうか。(広義の)演劇活動に携わることの魅力と効用の源泉があるとすれば、こうした目的意識の希薄な漠然とした内なる表現欲ということになるのだろう(もちろん芝居で飯を食っている人はその限りではなかろうが)。

目的という点ではしかし、文学性の刻印を帯びた演劇という芸術は、物語性から逃れられない。そして物語性とは、あらゆる言説行為と同様、ある種のイデオロギー性を免れぬものであろう。一見したところ、物語の筋が、明確なイデオロギー的内容を伝えているようには思われなかったとしても。イデオロギーなどと書くと少々不穏で大げさかもしれないが、わかりやすく言えば、メッセージのようなものだ。観客であるわれわれは、つねに作品の中にメッセージを探し求めずにいられない。それ自体はごく自然な反応であるばかりか、およそ真っ当な反応でもあろう。したがって、難解な作品を観て、何を言わんとしているのかがわからない、そもそも何かメッセージはあるの? という時折目の当たりにする反応も十分理解できる。

ただし、メッセージ性の追求も度を過ぎると、作品のメッセージを読み取れない自分は無知で鈍感だと落胆してしまうか、逆に、自らの知性と感性に自信たっぷりの人間ならば、自分にさえ理解できないそんな作品など駄作に違いないと断じて憤慨するといった風に、両極の態度に終わりかねない。

批評という仕事は、作品の内容になんらかの意味づけを与え、一定の判断を下すことで、作品を補完すると同時に限定するという二重性から逃れられないがゆえに、ときとして妙にありがたがられたり、かと思えば反対に、余分なものとして貶められたりすることがある。だが、どちらの態度もおそらく間違っている。批評の機能は、作品のよしあしを決めることではなく、作品のメッセージを解き明かしたりすることでもない。それはむしろ、批評の使命からの逸脱か傲慢のなせる技だろう。批評に課せられた本来の使命は、作品をわれわれの思考やわれわれを取り巻く生活や歴史へとつなぎとめること、言い換えれば、それ自体で自己完結している作品をわれわれの生きる世界との対話関係に引き入れることにあるのではないか。

この意味で、21世紀の演劇にとっては、批評の役目はとりわけ致命的となる、というのが現時点における暫定的な予感である。批評性の育たない芸術は不毛である。仮に現代日本の演劇界が低迷しているのだとすると、それは第一に批評の衰弱にも一因があるのではなかろうか。それ自体批評性の高い演劇の復権が今日ほど求められている時代はないということがたしかだとすれば、その前提として、批評性それ自体の回復と動員とが同時多発的に伴わなければならないだろう。

というのが、迂回の言葉を綴りながら咄嗟に思いついた問い2「直立演人にとって21世紀の演劇とは?」に対する当座の結論である。ただし、これは答えであって答えでないがゆえに、あくまで迂回答であるに過ぎない。

6つの論点 〈直立演人の場当たり問答 4〉

さて、ロプロプ氏とのコラボレーションを通して個人的課題として明確になった「場当たり性」(ad hocness)の問題については今後の考察に譲るとして、少なくともこのブログ上で応急的にであれ引き受けておかねばならない問題について、なにかしら応答をしておかねばならないだろう(とりわけこの「問答」自体を暫定的にであれ終了させるためにも)。

具体的には、アフタートークとアンケートを通してわれわれに投げかけられた問題提起として、以下の6点を挙げることができる。

1.現実世界に不条理が溢れている中で、観客にわざわざ劇場で不条理を観せる価値があるのか?

2.直立演人にとって21世紀の演劇とは?

3.能動と受動の関係をめぐって

4.個人の連帯を通した抵抗の可能性

5.この劇には「希望」がない!?

6.権力関係の二極構造はもう古い?

これらをテーマ化すると、不条理と現在、演劇の未来、関係の非対称性、孤立と連帯、芸術と希望、権力構造の多極化、という6つの論点が浮かび上がってくる。

いずれも私一人の手に負えない問題であって、それこそ未遂に終わる可能性も否定できないが、昆虫記に場当たり的に記した文章(2月28日および3月1日付)などもたたき台にして、(できることならロプロプ氏やみなさんの手も借りつつ)なんらかの応答や考察を試みてみたいと願う。

場当たり性の功罪 〈直立演人の場当たり問答 3〉

ロプロプ氏がその昆虫記(2月28日付)で書かれていた「疲労」(*)の原因とも重なるが、今回の公演における最大の問題が、もっぱらその場当たり性にあったことは疑いない。この点は、その最大の犠牲者となってしまったであろう昆虫氏からの指摘を受けて大いに反省させられたところである。

しかし同時に、私のもって生まれた性質としか言いようのない場当たり性なくしては、このささやかな試み自体が成立しえなかったことも疑い得ないことだとすると、これをどう考えたらいいのだろうか?

常識的に考えれば、この二つの問題は基本的には異なる次元の話ではあろう。しかし、これらは私の中では少なからず相互に関係しているように思えてならない。したがって、私には解明すべき一つの謎、あるいは引き受けるべき課題として残るのだが、とはいえ、これはどちらかというと個人的な課題になるので、なにかしら有意義な場当たり的考察を加えることができぬうちは、この場当たり的な場ではあくまで予感的課題として提示するにとどめておくことにしたい。

願わくは、近く予定している一月遅れの贅沢な午餐にてそういった話もできればいいのだが。

* 昆虫/ロプロプ氏の「疲労」は、「疲労」というよりうは「困憊」と表現されてしかるべきものだったかもしれない。というのも、疲労は心地よいこともあるが、困憊は心地よいことはありえないからだ。

場当たり性と未完ゆえの完成度 〈直立演人の場当たり問答 2〉

一週間ほど不条理の都エルサレムに滞在していた。そのため、「場当たり問答」の更新も滞ってしまった。旅先から書こうとも思っていたのだが、今回の旅自体、場当たり的性格が強かったこともあって、結局書く暇が見つからなかった。

「予告」のつづきを期待されていた方にはもうしわけなかったが、すべてが場当たり的な世界では、予告すらも例外なしに場当たり的であるがゆえに、未完の予告に留まるかもしれぬことがあるということもあらかじめご理解いただければ幸いである。

しかし、未完というのは、未来に完遂されるかもしれぬことの謂いであると開き直ることはできよう。というのも、先送りされた行為の予告は、遂行されることがないとも断定することができないからだ。

この意味で、われわれが「おとなしい給仕」と名づけたピンターの作品は、あらゆることが未完のままに終わるという点で、比類のない完成度を誇る作品であった。それゆえにこそ、われわれは作中で未完に終わった数々の問い(と沈黙)をこの先も引き受けざるを得ないのである。